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心のひきこもり

見たものに感激する気持ち

最近はよく、特に目的も持たずにぶらぶらと近所を散歩する。
最近じゃなくても、元々そういう趣味があるので昔からそうしている。
景色が動くと、それにつられて頭も回転するような気がするからだ。
本当は誰かが運転してくれる乗り物に乗ってぽけーっとしているのが一番好きだが、それには人とか金とかがかかってくるわけなので、とりあえず自分についている足で歩いている。

そういう事をしていると、ふと景色の中に何かを見つけ出す事がある。
いつも見ているはずのもののはずなのに、まるでその瞬間にそこに現れたかのように、突然気を引くものが出現する。
たとえば、枯れたアジサイの花がきれいに繊維だけ残して干からびているのを見つけて虫の羽のようだと感激したり、
知らない人の家の庭のアロエが邪悪な妖精に見えたり、
ふっと振り返ったところの垣根から蛇がひょっこり顔だけ出している・・・とかいうこともある。
まあ、その時ちょっとした驚きとか、感情の波を呼び起こす出来事ばかりだ。
子供の頃はこういう事で一々はしゃいでは、友達だの親だのに必死で説明していたし、思うほど共感してもらえなければ拗ねてしまったりもしたような気がする。

いつからそんな気持ちは失せていったんだろう?と、そんな事を考えた。
今私はツイッターをやっていて、日ごろのしょーもない思い付きとか、目の前に現れる情報に対する意見を書きこんだりとかするわけだけど、散歩していて見つけた花の話なんかしたことはない。
ましてや、それを「憶えた感情の記憶」というフォルダの中の、「感激」と分類されるフォルダ内にも入れてはいない気がする。
外側にぽいっと、ゴミのように放置するのだ。
時にはゴミ箱に捨てることもある。「悪い感情」の時は大体その感情自体を存在させまいとする。
「このへんクサイなあ。○○の体臭みたい」のような不謹慎なやつとか、「あ、これは妖精だ」とかいう、ちょっと幼くて直球な表現とか。
そういうあからさまに頭のフィルタ通ってないのはすぐさまゴミ箱行き。表に出ることがあってはいけない感覚だ。
感覚は感情を呼び起こし、感情は自己顕示欲を呼び起こす。それが解るからこそ、大きくなる前に封じ込めてしまいたくなる。

だけど、それって本当に良いことなのだろうか。
どんな事でも自分が感じた感覚を否定すると、とても不安になる。
そんな感覚を持っている自分自身は間違った常識で生きているのではないかと思うからだ。
もしかしたら、周りにものすごい迷惑をかけているかもしれない。
そう思い始めたら止まらなくなる。
けれど、大人になるっていうのは、「頭のフィルタ」を通して生きていくことができる事だ。
思った事全部口に出してる人間を、人は「大人」なんて言わない。
「大人になりたくない」という人の中には、そういう周囲に定規を押し付けられるような不自由さへの反発だけで生きている人もいるかもしれない。

でも私は別に大人を悪いものとは思わない。
ただ、何か寂しいのだ。
本当は否定しちゃいけないものを否定しているような気がするのだ。
そんな事しなくても、大人にはなれるような気がするのだ。
周りに暴力を振るわなくたって、自由な感覚でいられるような。
誰も傷つけない事は無理だけど、自分に自信が持てるような・・・。

でもそれも感覚の話。
そういう気がするだけで、まだそう言い切ることもできていない。
少なくとも、私の周囲の環境はそれを許さない「気がしている」。
そう感じている限り、私は環境を鉄の鎖として引きずっていくのだろう。
鎖に鍵はついていない。その存在を消す他には、自由になれはしない。